NHK「あの人に会いたい」−25

僕にとって、″ふにゃっ″の触れる体験で留まるのと、そこから先へ進んだ″ぐっ″の握られる体験にまで至った上で感じ得たものに、移り変わった情感なるものは、なかったのだろうか。いや、ある。同じではない。となるとその違いとは何であろう。物理的にいえば、接触性の″ふにゃっ″という感触と密着性の″ぐっ″という感触、これら感触が同質ではないのは誰もが認めると思うが、この両感触が脳へ伝達されたとき、前者の場合、後者の場合、ともに脳内でシグナル(信号)に変換された後は別々に振り分けられ最終的に落ち着くべき箇所へ属し、それぞれが受け持つ感応性に即した印象を、一定の認識としてはじき出すーこんな流れが想定されよう。これで誰の頭にもはっきりするのは、両者の違いというものは、自らの想いを相手に送ったのか送ってないのかいずれかに分かれる、という点に尽きる。更に及んで、送られた側にしてみたら、その相手の意思を受け取ったのかそうではないのかまでの自覚を持っていないと、その眼前で起こった稀も稀の出来事、これを見逃してまるで何事も無かったやに等しい、とは言い過ぎか、しかしそれに準じた非常な落差を感じさせる羽目に陥る。矢沢さんは自らの意思で僕の手を握り、握られたその感触を僕が認識しているかが問われるがそれは告白の通りだ。よく、相手の気持ちは目と目で通じてわかり合えた、という言い回しを聞くが、今回このケースでは皮膚感覚において感得し意思の疎通を果たしたと置き換えられよう。″ふにゃっ″と″ぐっ″の両感触を天秤に掛ければ、その脳が受けた刺激の度合いたるや激しい相違の表れとして後者に傾くその桁外れの重さを目の当りに出来よう。