映画「嵐が丘」

品川区の荏原図書館で借りた。18年ぶりぐらいに観た。返却期限の一週間はとっくに過ぎていたが今朝の8時頃から観始めた。本日の労働は午後4時から開始実質約2時間。現場では人に教える日々が続いている。その緊張感のせいであろう、睡眠途中に2,3度「はっ」と目が醒める。しかしまだ暗闇。朝7時20分頃からいよいよ寝付けないことが明らかとなり「嵐が丘を観なきゃ」モードに入った。それで今日返すためにもこんな時間から観出したわけ。しかしこの映画、こういう感じだったか、内容は全然覚えていないし当時の僕ちゃんはこの作品を何も理解出来てなかったろう。でも20代で観て置いて良かったとは振り返られる。当時、文春文庫「洋画ベスト150」が面白くて流行映画は見向きもしなかった。同世代の奴らはそのリアルタイムの映画を楽しんでいたであろう。この本に載っている映画は全て観てみようと思ったのだ。勉強しようと思っていたのだ。わからないながらも古典に挑戦し大事なことを吸収したいという想いでレンタル屋で借りまくっていた時期だ。この懐かしい想いはいま身体に纏わり付いている感触があり心地よい。でもほんとフランス映画とか訳わかんなかったなぁ。なにやらいきなり「Fin」とか幕に出て来て終わるのは「なんのこっちゃぁ」状態であった。70年代のアメリカ映画は大人のつくった映画と受け止め心開いて観れた。今度「真夜中のカーボーイ」観よう。最近借りて初めて観た「ミッションインポシッブル」で出演していたジョン・ボイドで想い出した。もう一人の主役はダスティン・ホフマンだ。映画は監督のものだろうが俳優の演技を楽しむのも醍醐味なのは言うまでも無い。さて「嵐が丘」、1939年度作品、原作:エミリー・ブロンテ、監督:ウイリアム・ワイラー、主演:ローレンス・オリビエ&マール・オべロン。悲劇の愛でありながらお互い死をもって安らぎの愛を得たってところきゃぁ、めんどくせーのう。男が、女が、互いを好きになるのはいいが、それが一方がのめり込みすぎたり、己の我が強すぎると、人間って苦悩するのねぇ。人として理性を働かせ自制することはいいことなのか悪いことなのか、己の感情の赴くまま突っ走るのがいいのか悪いのか、あー、もう考えるのめんどくちゃい、わからんちん。そもそもこの男女のポイントは、〝お互い行き違いの上に生じた誤解〝ってな感じ。この場面は、女と使用人の会話を別室で男が立ち聞きしてしまう。男に悪意はなく平静さが保たれていない我が身を隠したわけだ。女の目に触れさせたくないと配慮したのだ。そこで女と使用人の会話が最大の惹き付けどころ。結局男が女のセリフを最後まで耳に入ってさえすれば、こうまでして取り返しが付かない事態には進展しなかった。でも女のセリフは男にとって聞き続けるの辛くは絶えられず途中で...いや、女が真実に気付いてこれからが大事だというセリフを発したその瞬間、外では激しい嵐、その凄まじい雷電サウンドが轟くんだなーっ、これが。完全に何を言ったのか聞こえやしない。やがて女は男がそばで話しを聞かれていたことを知る。しかし男はその場にはいない。そして自らの最後のセリフが相手にしっかり届いていないことに考えが及ぶ。女は激しい感情を来たし涙を流し男の名を叫んでこれまた激しい嵐の中捜しに行くのだった..。雷電サウンドの場面は謎が残る。男はその前に家を出て行くのか、その同時か後の出て行くのか..。ここは映画を観た者同士で大いに盛り上がれるネタ。しかしまあ、こりゃもう悲劇中の悲劇。ここまでの悲劇の瞬間を目の当たりにしてしまった僕ちゃん...。ま、こういうすれ違いみたいな事って、ここまでのある種究極的な悲劇に至らないまでも、我々の間に、恋愛でも別の次元においても日常茶飯事に起こっているのでは?と頭をよぎったりする。主人公2人の演出は観ていて楽しかった。手段を用いて人に何かを伝えるとは、表現する楽しさとは、こういうことかしらん。続く